京都の戦争・西陣空襲

太平洋戦争終戦の日である今日、雨の朝に京都の空襲痕を訪ねました。

写真は上京区智恵光院通下長者町東北角の辰巳児童公園にある「空爆被災を記録する碑」。よく聞く「京都は文化財を守るために空襲されなかった」*1というのは、すでにほぼ否定された過去の神話*2で、実際にはこの西陣空爆のほか*3にも爆撃を受けています。それはもちろん大阪や東京などのような大規模な空襲ではなかったものの、確かに在ったものなのです。が、戦時中の軍部による報道規制や、戦後のGHQによる情報操作によって、ほぼ「無かったこと」のように忘れられている...というより、件の美談にすり替えられていることは、なんとも空恐ろしいことにも思えます。



 
碑によると...地図中の(紅い印の)7カ所に爆弾が投下され、即死43人、重傷13人、軽傷53人。家屋の被害は全壊71戸を含め、一部損壊を含めると292戸。被災者850名。
道向かいの駐車場にぽつんと立つ銀杏の樹。この樹もまた空襲の被害者で、この町の人に伝わる話では、被弾し引き裂かれたヒトの半身が、この樹の幹にたたきつけられて、張り付き、留まっていたそう。




とても上質な食用・生活用油で有名な「山中油店」*4のディスプレイにも、当時の店舗に落下した爆弾の破片が納められています。


何にせよ、こうして今も残った街を訪れたり、住めるのは、京を守る四神*5のお陰でしょうか。肝心なのは知る事と、忘れない事かもしれません。


私の母方の一家は、戦時中まで大阪の船場北久太郎町で商家を営んでいたのですが、大阪空襲で焼き出され、中京の親戚宅に命からがら逃げて来ました。その際、煤の付いた態でやってきた母・祖母は、空襲もなく過ごしていた、京の街人からの冷たい視線を忘れられないと、生前つぶやいて居りました。でもそんな街にも空襲はあり、戦後の占領統治に対する米国の政治的判断により、際どく大空襲や原爆投下を逃れた...という現実を鑑みるに、他に比して小規模とはいえ、京都の歴史を語る上で、この空襲を忘れてはいけないように思います。

*1:東洋美術を研究していたランドン・ウォーナー博士が、京都の文化財のリストを作ったのは事実らしいですが、それはナチス文化財略奪に対抗し、戦後の文化財返還や補償をするためのもので、爆撃を避ける趣旨の提言をしたという美談は、その後に博士本人が否定しているらしいのです。_もちろん、美術研究家である博士が、個人的に古美術の上への空爆を、残念且つ避けたい事と思っていたとしても...です。

*2:京都空襲に関する「神話」については、多くの人が研究しているようです。それらによると、一つには原爆投下を前提として、その効果の検証のために、大規模な爆撃を受けていない「さらの都市」を米軍が必要としていたこと。さらには、戦後統治下で日本人の敵対心を押さえるために、何らかの「共感を得るだけのシンボル」(=京都を攻撃しなかったという宣伝効果)を必要としていたこと。そういった米国の軍事的理由と、極く政治的な判断で、結果的に終戦まで大規模な攻撃を受けなかった...と言うことらしいのです。いちど大阪樟蔭女子大学教授の吉田守男氏の「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」朝日新聞社や、「京都に原爆を投下せよ―ウォーナー伝説の真実」角川書店を読んでみようと思います。

*3:昭和20年6月26日上京区出水<西陣空襲>以前にも、同1月16日東山区馬町、3月19日右京区春日、4月16日右京区太秦、5月11日京都御所に、京都は爆撃されています。

*4:「山中油店」下立売通智恵光院西入る。16日までお盆休み中ですが、ディスプレイは見ることができます。公式H.P.は http://yoil.co.jp/ 

*5:玄武・青龍・朱雀・白虎